虚無日記

残念な人の残念な人による素敵な人のための日記

倉下忠憲(2019)『「やること地獄』を終わらせるタスク管理「超入門」』、星海社新書

この本を読み終えて、「すごい本が出た!」と思った。筆者は本当に聡明であるとも思えた。

本書で筆者が貫くテーマは非常に明快だ。それはすなわち、本書の「はじめに」のタイトルにある「『やること』いっぱい人生への処方箋」ということだ。

本書は実用書という扱いになるだろうが、学術書・論文のような体裁になっている。なぜならば、「はじめに」で各章がどのような位置づけになっているかを明示しているからである。

本書は「はじめに」と「おわりに」を除くと、第1章から第9章で構成されている。

1章・第2章では、タスク管理とはそもそもどうようなものなのかを説明している。

3章から第6章では、タスク管理における理論を紹介している。

7章から第9章では、先ほどの理論を実践する際の注意点を指摘している。

 

以下、個人的抜き書きと若干のコメント。

 

はじめに 「やること」いっぱい人生への処方箋

 

「科学技術が進歩し、物質的にも豊かになったことで、個人の自由は格段に増えました。物やサービスは、目移りがとまらないくらいたくさんあります。また、個人の権利が尊重され、『やること』を自分で選べる環境も整っています。それは人類の成果でもあり、勝利でもあるでしょう。しかし、ここまでたくさんの『やること』を人間はうまくさばけるのでしょうか」(p.4

 

この最後の一文の「たくさんの『やること』を人間はうまくさばけるのでしょうか」という表現はもちろん反語だ。この発問の答えとしては言うまでもなく「いや、できない」。なるほど、人間はたしかに様々な制約から解放されつつある。日が没して暗くなり何もできないからもう寝ましょうなどということは現在の日本ではあまり考えられない。しかし、制約から解放された後の「やること」に対して、人々は適切なアクションするための叡智を有しているようには思えない。(叡智というのはいささかオーバーな言葉遣いかもしれないが、たくさんの「やること」でパンクしつつある(というか多分パンクしている)私にとって本書の内容は叡智のように思えたのである)

 

「生きることは、個々人の裁量に任されています。言い換えれば、『いかに生きるか』についての裁量は、それぞれの人が持っています。昔ながらの日本社会的価値観に沿って生きていけば、それなりの幸福がやってきたような時代ではもうありません。既存の構造が疲弊し、個々人は自分の生き方を組み立てていかなければならない時代になっています。そんな時代においても、タスク管理の技術は役立ちます」(p.9

 

本書は「いかに生きるか」というふるまいに対するアドバイスをしていると位置づけてよい。このように生きネバナライというような目的論(着地点)を本書は提示するのではなく、どのように生きるのかという方法論(過程や道筋)にこういうのがあるよというささやかな助言をしているのである。

 

1章 タスク管理について

 

この章では、著者がタスク管理とどのような付き合いをしていきたのかを紹介していた。

 

2章 タスク管理とは何か

 

「外部の助けがない状態の自己認識・判断・対象の把握は、大きく歪んでおり、正確性を欠いています。そのような状態では、行動の実行は思うようにはいかないでしょう。だからこそ、タスク管理が必要となるのです」(p.46

 

「タスク管理は自分の『やること』を管理することであり、一つにはうまく情報を扱うこと、もう一つは人間の不完全性とうまく付き合うことの二つのアプローチを持ちます」(p.53

 

3章 タスク管理の道具箱 基礎編(pp.56-71

 

タスク:実際に取れる具体的な行動(タスク管理における最小単位)

Todo:すべきこと

スケジュール:自分が取るべき行動のうち、開始時刻(と終了時刻)が決まっているもの

プロジェクト:複数のタスクによって構成された行動

ルーチン:タスクの中で、繰り返し行われる作業

リマインダー:パッシブとアクティブに分かれる。前者が付箋へのメモなど。後者は自分が自分に特定の時間になったら送るように設定したメールなど。

 

4章 リスト管理の道具箱 さまざまなリスト

 

本章ではタスク管理において中心的な役割を果たすリストについて、リストと一口に言っても様々なものがあることを整理しながら紹介していた。

 

5章 リスト管理の道具箱 周辺用語(pp.100-23

コンテキスト:いかなる状況でそのタスクが実行されるかを示す概念。実行場所や自分のコンディションなど

セクション:1日における一定量の時間の帯。何時から何時までにするタスクなど

 

6章 リスト管理の道具箱 実行のためのメソッドとワークフロー(pp.126-59

5分間ダッシュ法:とりあえず5分間だけタスクをする。やる気がないとき使えそう

 

「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門 (星海社新書)

「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門 (星海社新書)

 

 

佐宗邦威(2019)『直感と論理をつなぐ思考法』、ダイヤモンド社

今回は本の要約ではなく個人的抜き書き。

 

「ふつうに生きていると、僕たちの脳はずっと『他人モード』になっており、『自分がどう感じるか』よりも、『どうすれば他人が満足するか』ばかりを考えている。」(p.2)

 

「逆に、日常ののかで、『自分モード』と呼べる時間は、かなり少ないのではないかと思う。『自分モード』のスイッチを切ったまま日々を過ごしていると、僕たちは『何がしたいのか』を思い出せなくなる。『君はどう思う?』と意見を求められても、そもそも『自分がどう思うのか』すら、よくわからなくなる。そういう人からは何か新しいことを発想したり、粘り強く考えたりする力が失われる。それだけならまだいいが、何かにワクワクしたり感動したり幸せを感じたりする力も、だんだん鈍っていく」(p.3)

 

「ノートを買ったらまず試してほしいのが、『はじめに』(p.12)でも触れたジャーナリングという方法である。ポイントをいくつかあげておこう。
・毎日決まった時間に書く。毎朝の仕事前がおすすめ(これをモーニング・ジャーナリングという)だが、なるべく続けやすい時間帯ならいつでもかまわない
・人に見せないことが大前提。他人の目があるブログやSNSではなく、持ち運びが簡単なコンパクトサイズのノートがいい
・毎日、決まったページ数を書くようにする。『毎日2ページを埋める』と決めたら、なるべくそれを守る
・お気に入りのペンで手書きをする。……
・最低でも一ヶ月続ける。……

……ジャーナリングの記述内容は、『過去に起きたこと』よりは『そのときに感じていること』が望ましい。客観的な事実ではなく、あくまでも主観的な感覚・感情にフォーカスするわけだ。友人や家族や見せるわけではないし、ネットで公開することもないので、どんなに稚拙な文章でもかまわないし、どれだけキザなこと・恥ずかしいことを書いてもいい。いちばんとっつきやすいのは、『感情ジャーナル』だ。自分がいやだと思ったこと、うれしかったこと、どうにも気になっていることなどを、ありのままに書いていく。本当はつらかったのに我慢していたこと、じつは後悔していること、心の奥底に溜めている他人への悪口や嫉妬心などなど、マイナス感情が出てきても押さえ込む必要はない。ただし、ジャーナルの最後は必ずポジティブな感情で締めくくるようにすると、日々の充実感が高まる」(pp.111-2)

 

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

 

 

【要約】入江昭(2014)『歴史家が見る現代世界』、講談社

はじめに
 本著が出版された2014年。それは、第一次世界大戦の勃発からちょうど百年であった。そのことに伴い、世界各地で記念行事および歴史家の会合が催された。著者は2013年11月にドイツのミュンヘンで開かれた現代史研究所の学会に出席する。このことは第一次世界大戦が「現代史」の一部と捉われていることの証左と評価できよう。
 ここにおいて入江は問題提起をする。現代はいつからなのであろうか。現代とはどういう意味なのだろうか。今は現代なのだろうか。それとも「ポスト現代」という時代区分に位置しているのか、というような疑問である(これは私見であるが「現代」は無限後退せざるを得ない概念でありそのことを問うことはナンセンスではなかろうか)。

 

第1章 歴史をどうとらえるか
 いつから「現代」なのだろうか。問題は時代区分の基準である。
 たとえば戦争や革命のような大事件を基準とすると、クリストファー・ベイリーは『近代の誕生』においてフランス革命前夜から第一次世界大戦勃発が近代であるとする。ということは、1914年以降は「近代以降」ないし「現代」となる。それでは冷戦終結以降の世界はどうなのだろう。
 冷戦史観というのがある。それは、冷戦終結からを現代とする考えである。冷戦後は単に平和の時代といえようか。入江はそうではないと述べる。植民地支配が終焉したこと、第三世界が勃興したことは冷戦とは関係がないからである。冷戦後は米国が「世界唯一の超大国」、「米中二国の覇権争い」といった言説あるが、入江はそれに対して批判的だ。米中二か国間は経済的に相互依存関係で、中国移民が米国にはかなりの数でいるからである。 また、入江は、冷戦後はテロとの緊張関係という言説にも批判的である。多くの事件や動きを軽視することになるからである。
 まず、そもそも「現代」を考えるためには、現代的な現象がどのようにして現在まで流れてきたのかを考察する必要があろう。
 歴史研究は、従来国家中心の歴史が研究対象であったが、最近では国家の関係性(入江はこれをトランスナショナルと呼ぶ)が研究対象となってきている。
世界全体の動きを捉えようではないか。国や文化などの境界を越えた人間同士のつながり(これを入江はトランス・ナショナルと呼ぶ)、たとえば、ネットワーク・出会い・関わり合い・共有される思想や態度・摩擦などが考察対象となろう。また生態系などの環境史も対象にもなるだろう。
 第一次世界大戦において、従来は国vs国という構造であったが、グローバル史的に考えれば植民地支配者/被支配者、西洋/非西洋、白人/有色人種、男/女という構造にも捉えることができる。ある意味これはジャック・デリダが唱えた脱構築を入江は研究に用いているといえよう。
 いわゆる歴史認識というものがある。しかし、本当にあるのは「世界の歴史」であり、歴史家の責任とは歴史を神話にすりかえないことなのである。
グローバル史観は1990年代以降から興った。時系列的にいえば、ナショナル・ヒストリーからインターナショナル・ヒストリー(外交史等)へ、そしてグローバル・ヒストリーとなる。
 近代化という枠組みで非西洋地域の歴史を考えることは、近代欧米の歴史をモデルとしており、モデルにするということは知的帝国主義の表れで、反省すべき態度であろう。西洋を「ディセンター」(中心から外す)し、既存のモデルを用いるのではなく新規のモデルを開発するのが大切である。しかし、グローバルやトランスナショナルといっても国家の存在を否定するものではない。トランスナショナルという語はnationを前提にしていることからも分かる。
 グローバル史観の根本は、いろいろな形で世界各地がつながっているというものである。帝国主義消滅によりグローバル化が一層進展した。グローバル化には二段階ある。①ブレトンウッズ体制などに代表される米国主導の時期、②米国以外の諸国の復興ないし新興である。

 

第2章 揺らぐ国家
 本章のテーマは内交と外交の関係性、多様なつながりにおける国家の存在意義である。国家とは地理(境界線)と歴史(過去)によって定義される人間集団(国籍)と定義できる。ナチ、ファシストソ連共産党の瓦解が意味することは国内のネットワーク作りを独占しようとした国家権力は長続きしないということである。「大きな政府」から「小さな政府」への転向も同じである。福祉国家の構想は必然的に国家(政府)と社会(市民)とのあいだの距離を縮めることにある。国内のつながりと国際的なつながりは各国においても見出される。たとえば、ソ連ゴルバチョフによるペレストロイカや、ニクソンの訪中、毛沢東死去後の鄧小平白猫黒猫論だ。

 

第3章 非国家的存在の台頭
 ノンステート・アクターズ(非国家的存在)というのが台頭してきた。社会に存在する民間のネットワークが、国家とは関係なくできあがったのだ。国境を気にしない組織が増せば増すほど、国家そのものの重要性や影響力が相対的に低下していく(国家の役割がノンステート・アクターズへ分担・移行)ことは明白だ。
 たとえば1970年代に南アフリカアパルトヘイトが廃止されるまで、いかなる企業も南アフリカに投資するなという運動が発生し、ついに1991年人種隔離政策が廃止されたことは例証として十分に価値がある。
 これはネーションとは別のアイデンティティとなる。同じネーションに属するということは偶然同じところにいるというだけなく、必然的に文化的側面も共有するということを意味するが、人々のつながりの中核はネーションなのだろうか。それは違う。人種、民族、宗教、性別、職場、「共産党宣言」、「知的自由宣言」、健常者/障害者などというように様々な括り方ができる項があるのだ。

 

第4章 伝統的な「国際関係」はもはや存在しない
 著者の仮説によれば、国際関係には、軍事力や経済力などの「パワー」の側面(ハード)と、思想、心理、理想、感情といった文化の側面(ソフト)がある。国家間には権利政治的な関係と、国境を越えた文化的な関係がある(前者は潜在的な対立や抗争を前提、後者は世界で国々や人々を結びつける作用)のだ。
 だが、しかし待ってほしい。これは主体が異なっているのではないだろうか。何をもって国際関係しているのか定義はあいまいだ。国家における国際関係と人々及び社会における国際関係とがあり、この二義性または多義性を著者は混同しているのではないかと私は思う。十分に吟味するべき内容であろう。
 閑話休題。「国益」や「パワーゲーム」という枠組みで国際関係をとらえる習慣からなかなか抜け出せない理由は何かを考えてみよう。それはナショナリズムが依然として影響力を持つからだ。今必要なナショナリズムとは世界を分断するものではなく、結びつけるナショナリズムなのである。代表例はヨーロッパ共同体である。ECやEUの特徴は加盟国間の関税を撤廃して域内の交易を簡易化、移民、環境、人権などについても共通の政策を作成する(また、私見であるが、ASEANも結びつけるナショナリズムであろう。入国審査におけるASEANレーンは特筆すべきだ)。
 インターナショナリズム(国際主義、国と国との間をつなぐ)の流れを考えてみよう。それは近代国家が出現し始めた17世紀頃からヨーロッパで現れる。当時のヨーロッパでは、複数国家がそれぞれに自国の国益を追求するような状態であったが、国家間の平和を保ち相互依存的な関係を築くべきという考えも生まれたのである。
 この考えは理想主義的やしないか。そうではない。インターナショナリズムは「我が国」ではなく「我々の世界」が視野にある。インターナショナリズムは理想主義的すぎるという批判もある(過去の戦争も平和も、根本的な力の関係であり勢力均衡が当たり前というようなもの)。「ホッブズ的恐怖の状況」である。しかし、現実主義は冷戦終結を説明できない。冷静集結は、単に米ソのパワーバランスとして理解できるものではなく、緊張緩和の願望や、核への反対運動など広い意味での国際主義と関連づけなければ不十分なのだ。

 

第5章 普遍的な「人間」の発見
 グローバリズムという概念、グローバリズム、つまりグローブ(地球)全体の繁栄を目標とする概念は、国益の追求を目指すナショナリズムの対極にある(地球という惑星を一つの単位として見る)。
 トランスナショナリズムという概念において、新しい人間観を支えているのは国ではなくノンステート・アクターズというトランスナショナルな現象である。「トランス」という前置詞(これは入江の誤りで正確にいえば接頭語だが些細な事だろう)には、トランセンド(超越する)、トランスフォーム(変形する)、トランスミット(渡す)、トランスファー(乗り換え)などという単語があるように、「超える」、「変える」、「つなぐ」という意味合いがある。「トランスナショナリズム」も、国境を越えると同時に、国家の間を繋げ新しい性格のものにするという趣旨で使用されるのだ。トランスナショナリズムとはトランスナショナルなつながりを促進するという概念なのである。

 

第6章 環地球的結合という不可逆の流れ
 第二次世界大戦後過渡期には人類の大移動があった。戦争終結に伴う兵士や占領地で暮らす人々の引き上げである。労働力補給のための外国人労働者受け入れ(たとえば英仏蘭の植民地からの受け入れ、独が土にゲスト・ワーカーを求めたこと、米の移民法改正に伴う割り当て制度の廃止、産油国への移り住み)などだ。
ところで、オイルショックという大事件があったが、これは何を示したのだろうか。現代世界の一つの特徴として、代替エネルギーの探求が挙げられる。1970年代のオイルショックは、世界各地のつながり、相互依存性を改めて示すものであったのである。

 

結びに代えて……
 入江の別の著書の引用で締めくくろう。

 

「グローバリゼーションの進行する世界にあって、いかにして国家間、文明間の平和な関係を維持していくかが、人類の将来にとっての重要な課題となる。このふたつの流れが並行して進行すれば、世界六十億の人々にとって、より平和で住みやすい時代となる可能性があるが、もしもグローバル化が国家間、文明間の対立や衝突を招くことになれば、人類にとってこれ以上の悲劇はない。/そのような悲劇を防ぐためにも、各国の政府、市民、民間組織がお互いに協力しながら、グローバル化のもたらす負の面、とくに環境汚染、伝染病、テロリズムなどに対処し、一方国境を越えた人的交流を盛んにすると同時に、文明間の対話を促進していくことが望まれる。その意味では、歴史家としても、過去を共有するのみならず、将来をも共有するように努力すべきだ、ということになろう」(入江 2005,p.206)

 

引用文献
入江昭(2005)『歴史を学ぶということ』、講談社

 

歴史家が見る現代世界 (講談社現代新書)

歴史家が見る現代世界 (講談社現代新書)

 

 

 

歴史を学ぶということ

歴史を学ぶということ

 

 

【要約】碧海純一(1967)『法と社会――新しい法学入門』、中公新書

 

まえがき
 本書は、高校の上級生や大学の教養課程の者へ向けられて書かれた。日本には、「法学入門」または「法学概論」という名の書物がたくさんあり、良書もある。だがしかし、それらはやや専門的すぎるため、むしろ「法学入門」へ移るための「入門書」があってよいのではないか、と筆者は考えている。そのため、筆者はこういう。

  

 このような意図で書いたのがこの書物ですから、これを読んだだけで、  「法のことは一応わかった」と思われては困ります。……これを足がかりとしてさらに進んだ読書をしてもらわないと、せっかく法学の玄関にまで歩を進めながら、ノックをしただけまたもとへひきかえすことになり、私の努力も無駄に終わってしまいます。(碧海 1967、p.ⅱ)

 

 

 本書を踏み台にして、より法学の学習が進めば、筆者冥利に尽きるであろう。

 

第1章 文化の一部としての法
 法というものは、言語、神話、宗教、道徳、経済などと同じく、文化の一部であると筆者は述べる。そもそも文化とは何であろうか。「文化」(culture)という言葉は、日常的には「価値の高いもの」、「高尚なもの」というニュアンスがあるが、本書では、このような価値的な要素をなしにして、「文化」を用いることを意図している。筆者は人類学者のハースコヴィッツの「文化」の定義を紹介する。それは、「環境のうちで、人の造った部分」というものである。人の造った部分というのは、有形・無形のものを問わない。そういう意味で人工的なものなのである。個人の習慣は関係ない。ある集団を構成する者の生活様式の共通項が「文化」なのである。
 ハースコヴィッツの定義には吟味すべき点がある。それは、「人の造った部分」という概念である。文化の内容としての生活様式は、生物的・遺伝子的なものは含まず、集団生活の中で後天的に習得された(学習された)ものである。文化人類学の見地からみれば、食人族のテーブルマナーやフランスのそれも等しく興味ある文化現象なのである。
 では、文化とは人間に固有のものなのであろうか。必ずしも厳密な意味で人間に固有のものとはいえない。哺乳類だけではなく鳥類にも萌芽的な形態がある。しかしここには、大きな隔たりがある。それは、言語である。言語という知識伝達方法で、人類の進歩は指数関数的に早まった。
 人類は昔から2つの問題と取り組んできた。どうすれば自然の厳しい環境の中で生存を確保し物質面で豊かな生活を営めるのかという点と、どのような社会組織を作って、個人と個人、集団と集団、集団と個人との関係を調整すればよい生活を送ることができるのかという点である。後者において、重要な役割を期待されるのが本書の主題「法」である。
 法とは何であろうか。正確な定義を与えるのは非常に難しい。一応の便宜的な定義をしておくとしたら、筆者は「<法>とは、<政治的な組織された社会の――その成員によって一般的に承認され、かつ究極においては物理的強制力に支えられた――支配機構によって定立または承認され、かつ強行される規範の総体>である」という。
 法は、言語、神話、宗教、道徳、経済などと同じく、文化の一部であると先述したが、このような分類はあくまでも便宜的なものであり、非常に複雑な交錯関係があることには留意するべきであろう。

 

第2章 人間社会の統合
 ヒトを原初的に遡って考えてみよう。人間を裸の個体として見て、他の生物と比べてみると弱いことは確かである。しかし、そんな裸の個体としては脆弱なこの種族は厳しい生存競争に耐え抜いた。原因は道具の高度な使用である。道具の使用のみであるなら、チンパンジーのような高等猿類も初歩的な能力を有しているが、それを画するものがある。人間の社会生活は後天的学習に依拠することは上述の通りであるが、これには言語の使用ということを抜きにしては語れまい。大脳の発達により、ヒトは「いま」と「ここ」という時間的・空間的な直接の所与という軛から解放され、抽象的で概念的な思考をなしうるようになった。たしかに、チンパンジーやゴリラも言語を使用するが、言葉と言葉を結合して文を形成することはできない。このことは大きな差異である。
「抽象的」というと、何やら非難するニュアンスがある。だが、よく考えてみてほしい。「その議論は抽象的だから、もっと具体的に話そう」という非難それ自体は、そもそも人間の特権なのである。こうした非難は、抽象という特権の濫用に向けられたものであり、この特権性を没却するものではない。具体的なものを抽象的にすることを、カタドリをステルと書き「捨象」と表す。ここの事物にある諸性質のうち、共通のものに着目し、それだけに注視することといってもよいだろう。人間の抽象的思考と言語には相乗的・フィードバック的な作用がある。それによって加速度的に動物的束縛から脱却したといえよう。
 思想史上、性善説性悪説があるが、今日の科学の立場からみると、両説は社会秩序の存在を説明する根拠として、人間の先天的・本能的なものに比重を置きすぎだろう。人間が他の生物との生存競争に勝ち抜くためには、個々のメンバーが集団全体の生存に適した方向に向かって、秩序づけられ、統制される必要がある。このような過程を便宜上「社会統合」と呼ぶなら、社会統合はいかにして可能なのだろうか。この問いに答えるために、「社会化」および「社会統制」という2種の過程について考えてみることにしよう。
 「社会化」とは、個人がある社会の中で、その文化の型に適合した行動様式を学習していく過程である。人間の赤ん坊には、どの社会に生まれ落ちるかという選択権はない。否応なしに、特定の社会や文化の中に「産み込まれる」("be born into")のである。社会化の過程を踏み、個人は人格が形成され、社会において通用するいろいろな規範が個人心理の内面に沈着する。沈着化したものは、いわゆる「良心」であるが。良心の具体的内容を学習する能力は先天的だが、学習される内容は後天的である。ここにおいて、言語が不可欠な役割を果たす。諸自然言語の違いにより、学習される内容も自ずと変わってくる。
 「社会統制」とは、「なんらかの制裁によって個人の行動を一定の期待された型に合致させる過程」のことである。社会統制は、大体において、社会化を前提とし、それに対して補充的・補強的な役割を果たす。さまざまな角度から分類してみよう。第1に、制裁が、物理的なものか、経済的なものか、心理的なものかという区別である。第2に、自覚的統制と無意識的統制である。第3に、制度的にフォーマルなものと、非制度的なインフォーマルなものである。以上の3つの分類法に基づくと、法的統制は、物理的制裁を通じて、自覚的、技術的、制度的な統制となる。
 法的な統制にとって、言語の抽象性はどのように関連してくるのであろう。多くの言語において、jus (羅)、 droit (仏)、 diritto (伊)、 Recht (独)などは「法」という意味もあるし、「正しい」「正義」という意味もある。このことは、法は正義を目指すものでなければいけないことの証左である。正義とは何かという問いに答えるのは難しい。だが、正義の必要条件の1つに「公平」は挙げられるだろう。公平を実現するために、法的統制はどのような仕組みになっているかというと、あらかじめ抽象的・一般的な準則があり、そのルールを個々の事件に当てはめるという法的三段論法の形式が用いられている。この大前提において、言語のもつ抽象作用が不可欠の意義を持っていることは明らかである。

 

第3章 法の発展の一断面
 この章では、法という一断面に焦点を当てて法の発展、歴史が述べられている。
「法と社会」というテーマについては、すでに18世紀から、いくつかの先駆的な業績がある。例えば、それぞれの国の法や政治体制と気候、風土、慣習などとの相関関係を論じたモンテスキュー(仏)の『法の精神』がある。19世紀に入ると、ローマ法の歴史を宗教、軍事、政治、経済などとの密接な関連に着目し論じたイエリング(独)の『ローマ法の精神』がある。19世紀前半、サヴィニー(独)は、法の発展は言語の発展に例えた。たしかに、法は、言語のように自然発生的に成長していく面がある(サヴィニー自身は民族精神という語を用いる)。しかし、それは1面である。明治期の日本は、外国から法を移植、つまりは「継受」したではないか。法の発展には、人為的な因子もあることが伺える。
 19世紀サー・ヘンリー・メイン(英)は『古代法論』において、ローマ法やイギリス法の研究に基づいて、古い時代の法改革の道具として、「擬制」、「衡平」、「立法」の3つをあげている。擬制と衡平という道具を用いて、形式で硬い法律に弾力を生ませた。(法の発展方法として意識的に使われ始めたのは近代以降ではあるが)立法により、「法を社会に追いつかせてゆく」だけでなく、法を手段として社会のほうを一定の期待される方向に導いてゆくことを可能にする。


第4章 現代社会と法
 社会学者テニエス(独)は「ゲマインシャフト 」と「ゲゼルシャフト」を提唱した。前者においては、インフォーマルな非制度的な統制手段が有効で、法の役割は軽い。しかし、前者から後者に移るにつれて、インフォーマルな非制度的な統制手段は衰退し、法は衰退により生じた空白を埋める役割を負わされる。そのことにより、法そのものも、より高度に複雑に精緻に分業化していく(民法、商法、労働法、独禁法などのように)。
 法の機能の増大は、時として、市民生活に対する重大な圧力になる。そこで、近代法の特色である権力抑制作用が有効に機能しなければならない。哲学者ラッセル(英)は、人類の長年の悲願のひとつは(ちょうど兇暴な野獣を馴らすように)「権力を馴致すること」であったというが、近代民主政治とそのための法的技術とは、まさにこの悲願の実現を目的として工夫されたものであろう(チェック・アンド・バランスなど)。

 

第5章 法学
 法というものは、様々な社会目的を実現するための社会統制技術である。それゆえに、法の妥当で合理的な運用をするためには、現実の社会生活についての科学的な知識を必要とする。しかし、このことが承認されたのは20世紀のはじめ以降のことであった。
 ヨーロッパ大陸では、大学において職業的法律家の養成がなされ、イギリスでは法曹ギルドとしてのインズ・オブ・コートが伝統的に職業的法律教育を独占してきた。このことが、法学において科学的手法を用いることを阻害してきたのであろう。筆者は春秋の筆法をもって、法学者側の認識不足が社会学その他の発達を遅らせたという痛烈な批判をする(ドイツではローマ法の継受があったため、それの文献学的・訓詁学的な教育が、フランスでは近代法典の完備が、イギリスではギルドであったことが原因)。
 19世紀のドイツ法学においては、法律の条文や一般的な法原理からの演繹的論理操作によって法律問題を解決することが学者の仕事とされていた(法解釈学の任務は「概念の計算」にあると言ったサヴィニーの句からもわかるだろう)。フランスでは、ドイツのように学説による完璧な体系の構築ということよりは、法典に書かれている条文の忠実な注釈に重点が置かれていたが、やはり概念の分析や法命題からの形式的演繹の偏重する傾向は共通する(フランスやドイツから法を継受した日本もこの傾向を「継受」する)。
 しかし、イエリングはこの主流派を「概念法学」と呼び批判する。法というものはそもそも社会全体の利益と個人の利益を増進し、また諸利益相互間の妥当な均衡を図るための社会技術であり、ゆえに、法学は法の合目的的で有効な運用のための実践的・技術的な学問であることを力説なのであった(日本の民法学者末広厳太郎は弟子の川島武宜に同様な批判を行う)。
 概念法学は現実を見ていない。現実を見よと自由法論者は言う。法律の欠缺を補う材料は、概念ではなく、社会生活事実の経験的な探求によって得られねばならないはず、このことから法社会学が興るのであった。このとき、概念と経験は対置されることになる。

 

 

法と社会―新しい法学入門 (中公新書 (125))

法と社会―新しい法学入門 (中公新書 (125))

 

 

 

『哲学思考トレーニング』

伊勢田哲治(2005)『哲学思考トレーニング』、ちくま新書

 

これは中々にいい本でしたね。大学に入ったばっかりの人とかに向いていると思います。

例によって、以下は個人的抜き書き&コメント・要約。

 

第1章 上手に疑うための第一歩
クリティカルシンキング(批判的思考)とは、「ある意見を鵜呑みにせずよく吟味する」(p.11)こと(つまり、ある意見の筋道をよく考えて同意することも批判的な態度となり、なんでもかんでも否定するというような日常で用いられるマイナスなニュアンスはない)

クリティカルシンキングには、修理型(人間の思考はどういう間違いを犯しやすいのかを学び間違いを避けるというもの)と改築型(どういうルールに従って思考すると正しい結論につながるのかというもの)の2つのパターンがあるという筆者の考えに基づく分類(pp.11-2)にはなるほどたしかにと思った

クリティカルシンキングの出発点は、相手の主張について、どういう前提のもとをにしてどういう結論へと至ったのか明確にすること(p.29)

・「議論の構造を押さえるためには、まず結論を探すのが近道である」(p.34)

 

第2章 「科学」だって怖くない
・第1章において、クリティカルシンキングの出発点についての話があったが、前提における「科学的事実」への信頼性はどうやったら獲得できるのだろうか。換言するなら、「科学」を「科学」たらしめているものは何ですか、というお話
ここで参考になるのはカール・ポパーが提案した「反証可能性」という概念(法学だと平井宜雄がポパーに影響されて法における議論では反論可能性が大切であると言ってた)、これは、ある仮説があったとしてそのデータと突き合わせることでその仮説が放棄されることがありうる(真理は必ず正しいので、というか必ず正しくなければ真理じゃないので、その仮説が本当に真理がどうか試すためにじゃんじゃん真理性を揺さぶるものをぶつけましょう、それでも真理性が揺らがなかったら真理となりますねという考え)ことを意味する(pp.78-9)

 

第4章 「価値観の壁」をどう乗り越えるか
・価値判断(筆者はクリティカルシンキングは主張の吟味をするものという話の流れを汲んで価値主張という言葉を使っているけど、個人的は判断をベースにして主張を組み立てていくのだからやっぱり価値判断という言葉のほうがしっくりくる)におけるクリティカルシンキングの目標は、明確な解答を出すというより、「与えられた条件下で『少しでもましな答え』を出すこと(p.151)

・価値判断のクリティカルシンキングには、①基本的な言葉の意味を明確化、②事実関係の確認、③同じ理由をいろいろな場面に当てはめる、④出発点として利用できる一致点を見つける、という4つの視点が必要(p.179)

 

第5章 みんなで考えあう技術
クリティカルシンキングにおける重要な心構えを筆者は経験則から2つ説く
①自分の意見に感情移入しすぎない、②自分の意見に対する批判は必ずしも自分自身に対する攻撃ではない

 

 

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

哲学思考トレーニング (ちくま新書 (545))

 

 

『荘子』

福永光司(1964)『荘氏』、中公新書

 読了後の感想として、雪みたいな本だと思った。

 あとがきにもあるとおり、筆者は戦争を体験しており徴兵されている。冷たくて、とても悲壮だ。

 「雪みたいな」と形容したのは理由がある。「雪が溶けると春が来る」という詩的な表現があるように(私自身はこの問いに対して水になるという答えをしてしまう輩だが)、刺すような冷たさのなかに前向きで明るいものが萌芽としてあるのである。

 

 以下、個人的抜き書き&コメント。

 

「人間はまた自分一人では生活することができない。人間という言葉がすでに示しているように、人間はただ他人とかかわることに おいてのみ人間でありうる。つまり、人間は社会的な存在なのである。しかし、人間関係は時として対立と相剋の中に引き裂かれ、 社会はしばしば個人の自由を拘束し抑圧する。あるいは形式化した道徳規範によって、あるいは因習化した慣習儀礼によって、さら にはまた集団的な均一化によって、社会はしばしば個人の生活に干渉し、その自由をおびやかす。……現実の人間は自己自身に対し て不自由であるばかりでなく、他人や社会に対しても不自由なのである」(p.3)

 

「いまもし、人間が免れるすべなく死を必然づけられているという、この一点のみに注目すれば、人間はみな死刑囚であるという認 識も十分に成立しうるであろう。死刑囚とはいうまでもなく自由と最も鋭く対立する概念である。人間は死によって縛られた不自由な存在である。人間が現実に生きているということは、この根源的な不自由によって逃れるすべなく縛られているということにほかならない。かくて現実の人間は、内と外とにおいて不自由であるばかりではなく、その存在そのものの根源において不自由である。人間がだれでも自由でありたいと願うのは、このような現実の不自由の中からである」(p.4)

 

「一般にヨーロッパ人の思考は分析的である点において、また抽象的能力に富み、論理的法則的である点において、すぐれた特徴をもつといわれている。しかし、中国人の思考は由来、分析的であるよりも全一的、抽象的であるよりも具体的、論理的法則的であるよりも直観的体験的である。このような特徴をもつ中国人の思考は、当然のことながら、長所と短所をもつ。法則科学とくに自然科学の発達を困難にし、技術文明の進歩に飛躍的な成果を期待できにくいのが、その大きな短所である。また、感覚知覚の世界に低迷しやすく、安易な快楽主義、独善的な主観主義に陥りやすいのもその欠点であろう。しかし、彼らの思考は具体的な事象の本質を直観的、全一的、体験的に把握する点においては何よりも大きな長所をもつ。……人間学こそ中国哲学のエッセンスであろう。/というのは、人間の生命のいとなみは常に一つの有機的な全体であり、そこでは全体を全体としてとらえる叡智が何よりも重要だからである」(p.17)
 リチャード・E・ニスベットの『木を見る西洋人森を見る東洋人』で似た指摘があったことを想起した。つまり、西洋人はカテゴリーでとらえ、東洋人は関係性でとらえるということである。たとえば、子供にサル、ウマ、バナナ、草の絵を見せる実験があり、東西の子供たちに近しい順に並べてもらうと、西洋の子供はサル・ウマ/バナナ・草という哺乳類/植物カテゴリーで分けるのに対して、東洋の子供はサル・バナナ/ウマ・草という動物が何を食べるのかという関係性で分けるというものがある。

 

「道徳規範は人間に『ネバナラナイ』を教える。そして、人間は常に何ものかで『ナケレバナラナイ』。しかし、『ネバナラナイ』が十分な意味で『ネバナラナイ』でありうるのは、それが人間の現実存在を周到に把握し、それをしっかりと踏んで立つ場合だけである。人間の現実存在とは、言葉をかえれば、人間の『デアル』である。人間の『ネバナラナイ』の真理性は、常に、人間の『デアル』の把握の周到さ如何に依存する」(p.69)

 

 

荘子―古代中国の実存主義 (中公新書 (36))

荘子―古代中国の実存主義 (中公新書 (36))

 

 

 

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか

 

 

 

C95お疲れ様でした

こんばんは、リン酸です。

 

平成最後の冬コミが終わってしまいましたね。お疲れ様でした!

みなさまは、C95いかがでしたか?

私は、ひっそりと、1日目の土曜日西ふ-02aにて頒布をしてました。

弊サークルにお越しになられた方々、ありがとうございます!

 

†14th syndrome†でのサークル参加では、今回含めて3回目でしたが、

なんと、今回初めての成功体験を得ることができました!

 

今回は、

・『撃墜王の忘れ物1』

・『撃墜王の忘れ物2』

・『神世界』(これは、弊サークルに所属するもう一人、ねーさんの作品です)

・『ショートショート:電子媒体』

・『撃墜王の忘れ物作者によるリパライン語報告書』

・『いわゆる「衆議院解散権論争」とゲーム理論

・『旧日本軍に立ち表れるパノプティコン

以上、7点を頒布したのですが、どれも1部は必ず売れました!やったねたえちゃん!

特に、最後の2つの衆議院パノプティコンの捌け具合が非常に良かったですね。

皆何にそんな惹かれて手を取るんだろう?

 

今回の成功体験で一番何が学べたかというと、「打てば響く」という一言に集約されますね。やっぱり作品の数を増やすことが大事になのかなァというのが所感です(ブログも同じだね!)。

 

さて、今回の成功をもとに、次回は(来夏のコミケにも参加します、当選すればの話ですが)『撃墜王の忘れ物』のいずれかのヒロインのハッピーエンドと『ショートショート短編集』をメインにがんばろうかなと思います。引き続きよろしくお願いします!

 

いやぁ、それにしても、倉田夏希さんのグリムノーツの白雪姫のコスプレ見れて最the高だったし、しかも畏れ多くも夏希さんの方から私へ握手をしてきてくださって最the高でした。久しぶりに2.5次元にときめいてしまったぜ…。倉田夏希さんの写真は一生家宝にします。

当方最the高裁判所大法廷は「倉田夏希さんは最the高」と認定!(オタク特有の早口)(クチャクチャ)(アディダスの財布)(親が買ってきたチェックシャツ)(ダボダボのジーパン)(修学旅行で木刀購入)(午後の紅茶)(プーマの筆箱)(指紋でベタベタのメガネ)(倉田夏希でマジ泣き)(ワキガ) (ドラゴンの裁縫セット)(瞬足)(コーナーで差をつけろ)