虚無日記

残念な人の残念な人による素敵な人のための日記

【要約】碧海純一(1967)『法と社会――新しい法学入門』、中公新書

 

まえがき
 本書は、高校の上級生や大学の教養課程の者へ向けられて書かれた。日本には、「法学入門」または「法学概論」という名の書物がたくさんあり、良書もある。だがしかし、それらはやや専門的すぎるため、むしろ「法学入門」へ移るための「入門書」があってよいのではないか、と筆者は考えている。そのため、筆者はこういう。

  

 このような意図で書いたのがこの書物ですから、これを読んだだけで、  「法のことは一応わかった」と思われては困ります。……これを足がかりとしてさらに進んだ読書をしてもらわないと、せっかく法学の玄関にまで歩を進めながら、ノックをしただけまたもとへひきかえすことになり、私の努力も無駄に終わってしまいます。(碧海 1967、p.ⅱ)

 

 

 本書を踏み台にして、より法学の学習が進めば、筆者冥利に尽きるであろう。

 

第1章 文化の一部としての法
 法というものは、言語、神話、宗教、道徳、経済などと同じく、文化の一部であると筆者は述べる。そもそも文化とは何であろうか。「文化」(culture)という言葉は、日常的には「価値の高いもの」、「高尚なもの」というニュアンスがあるが、本書では、このような価値的な要素をなしにして、「文化」を用いることを意図している。筆者は人類学者のハースコヴィッツの「文化」の定義を紹介する。それは、「環境のうちで、人の造った部分」というものである。人の造った部分というのは、有形・無形のものを問わない。そういう意味で人工的なものなのである。個人の習慣は関係ない。ある集団を構成する者の生活様式の共通項が「文化」なのである。
 ハースコヴィッツの定義には吟味すべき点がある。それは、「人の造った部分」という概念である。文化の内容としての生活様式は、生物的・遺伝子的なものは含まず、集団生活の中で後天的に習得された(学習された)ものである。文化人類学の見地からみれば、食人族のテーブルマナーやフランスのそれも等しく興味ある文化現象なのである。
 では、文化とは人間に固有のものなのであろうか。必ずしも厳密な意味で人間に固有のものとはいえない。哺乳類だけではなく鳥類にも萌芽的な形態がある。しかしここには、大きな隔たりがある。それは、言語である。言語という知識伝達方法で、人類の進歩は指数関数的に早まった。
 人類は昔から2つの問題と取り組んできた。どうすれば自然の厳しい環境の中で生存を確保し物質面で豊かな生活を営めるのかという点と、どのような社会組織を作って、個人と個人、集団と集団、集団と個人との関係を調整すればよい生活を送ることができるのかという点である。後者において、重要な役割を期待されるのが本書の主題「法」である。
 法とは何であろうか。正確な定義を与えるのは非常に難しい。一応の便宜的な定義をしておくとしたら、筆者は「<法>とは、<政治的な組織された社会の――その成員によって一般的に承認され、かつ究極においては物理的強制力に支えられた――支配機構によって定立または承認され、かつ強行される規範の総体>である」という。
 法は、言語、神話、宗教、道徳、経済などと同じく、文化の一部であると先述したが、このような分類はあくまでも便宜的なものであり、非常に複雑な交錯関係があることには留意するべきであろう。

 

第2章 人間社会の統合
 ヒトを原初的に遡って考えてみよう。人間を裸の個体として見て、他の生物と比べてみると弱いことは確かである。しかし、そんな裸の個体としては脆弱なこの種族は厳しい生存競争に耐え抜いた。原因は道具の高度な使用である。道具の使用のみであるなら、チンパンジーのような高等猿類も初歩的な能力を有しているが、それを画するものがある。人間の社会生活は後天的学習に依拠することは上述の通りであるが、これには言語の使用ということを抜きにしては語れまい。大脳の発達により、ヒトは「いま」と「ここ」という時間的・空間的な直接の所与という軛から解放され、抽象的で概念的な思考をなしうるようになった。たしかに、チンパンジーやゴリラも言語を使用するが、言葉と言葉を結合して文を形成することはできない。このことは大きな差異である。
「抽象的」というと、何やら非難するニュアンスがある。だが、よく考えてみてほしい。「その議論は抽象的だから、もっと具体的に話そう」という非難それ自体は、そもそも人間の特権なのである。こうした非難は、抽象という特権の濫用に向けられたものであり、この特権性を没却するものではない。具体的なものを抽象的にすることを、カタドリをステルと書き「捨象」と表す。ここの事物にある諸性質のうち、共通のものに着目し、それだけに注視することといってもよいだろう。人間の抽象的思考と言語には相乗的・フィードバック的な作用がある。それによって加速度的に動物的束縛から脱却したといえよう。
 思想史上、性善説性悪説があるが、今日の科学の立場からみると、両説は社会秩序の存在を説明する根拠として、人間の先天的・本能的なものに比重を置きすぎだろう。人間が他の生物との生存競争に勝ち抜くためには、個々のメンバーが集団全体の生存に適した方向に向かって、秩序づけられ、統制される必要がある。このような過程を便宜上「社会統合」と呼ぶなら、社会統合はいかにして可能なのだろうか。この問いに答えるために、「社会化」および「社会統制」という2種の過程について考えてみることにしよう。
 「社会化」とは、個人がある社会の中で、その文化の型に適合した行動様式を学習していく過程である。人間の赤ん坊には、どの社会に生まれ落ちるかという選択権はない。否応なしに、特定の社会や文化の中に「産み込まれる」("be born into")のである。社会化の過程を踏み、個人は人格が形成され、社会において通用するいろいろな規範が個人心理の内面に沈着する。沈着化したものは、いわゆる「良心」であるが。良心の具体的内容を学習する能力は先天的だが、学習される内容は後天的である。ここにおいて、言語が不可欠な役割を果たす。諸自然言語の違いにより、学習される内容も自ずと変わってくる。
 「社会統制」とは、「なんらかの制裁によって個人の行動を一定の期待された型に合致させる過程」のことである。社会統制は、大体において、社会化を前提とし、それに対して補充的・補強的な役割を果たす。さまざまな角度から分類してみよう。第1に、制裁が、物理的なものか、経済的なものか、心理的なものかという区別である。第2に、自覚的統制と無意識的統制である。第3に、制度的にフォーマルなものと、非制度的なインフォーマルなものである。以上の3つの分類法に基づくと、法的統制は、物理的制裁を通じて、自覚的、技術的、制度的な統制となる。
 法的な統制にとって、言語の抽象性はどのように関連してくるのであろう。多くの言語において、jus (羅)、 droit (仏)、 diritto (伊)、 Recht (独)などは「法」という意味もあるし、「正しい」「正義」という意味もある。このことは、法は正義を目指すものでなければいけないことの証左である。正義とは何かという問いに答えるのは難しい。だが、正義の必要条件の1つに「公平」は挙げられるだろう。公平を実現するために、法的統制はどのような仕組みになっているかというと、あらかじめ抽象的・一般的な準則があり、そのルールを個々の事件に当てはめるという法的三段論法の形式が用いられている。この大前提において、言語のもつ抽象作用が不可欠の意義を持っていることは明らかである。

 

第3章 法の発展の一断面
 この章では、法という一断面に焦点を当てて法の発展、歴史が述べられている。
「法と社会」というテーマについては、すでに18世紀から、いくつかの先駆的な業績がある。例えば、それぞれの国の法や政治体制と気候、風土、慣習などとの相関関係を論じたモンテスキュー(仏)の『法の精神』がある。19世紀に入ると、ローマ法の歴史を宗教、軍事、政治、経済などとの密接な関連に着目し論じたイエリング(独)の『ローマ法の精神』がある。19世紀前半、サヴィニー(独)は、法の発展は言語の発展に例えた。たしかに、法は、言語のように自然発生的に成長していく面がある(サヴィニー自身は民族精神という語を用いる)。しかし、それは1面である。明治期の日本は、外国から法を移植、つまりは「継受」したではないか。法の発展には、人為的な因子もあることが伺える。
 19世紀サー・ヘンリー・メイン(英)は『古代法論』において、ローマ法やイギリス法の研究に基づいて、古い時代の法改革の道具として、「擬制」、「衡平」、「立法」の3つをあげている。擬制と衡平という道具を用いて、形式で硬い法律に弾力を生ませた。(法の発展方法として意識的に使われ始めたのは近代以降ではあるが)立法により、「法を社会に追いつかせてゆく」だけでなく、法を手段として社会のほうを一定の期待される方向に導いてゆくことを可能にする。


第4章 現代社会と法
 社会学者テニエス(独)は「ゲマインシャフト 」と「ゲゼルシャフト」を提唱した。前者においては、インフォーマルな非制度的な統制手段が有効で、法の役割は軽い。しかし、前者から後者に移るにつれて、インフォーマルな非制度的な統制手段は衰退し、法は衰退により生じた空白を埋める役割を負わされる。そのことにより、法そのものも、より高度に複雑に精緻に分業化していく(民法、商法、労働法、独禁法などのように)。
 法の機能の増大は、時として、市民生活に対する重大な圧力になる。そこで、近代法の特色である権力抑制作用が有効に機能しなければならない。哲学者ラッセル(英)は、人類の長年の悲願のひとつは(ちょうど兇暴な野獣を馴らすように)「権力を馴致すること」であったというが、近代民主政治とそのための法的技術とは、まさにこの悲願の実現を目的として工夫されたものであろう(チェック・アンド・バランスなど)。

 

第5章 法学
 法というものは、様々な社会目的を実現するための社会統制技術である。それゆえに、法の妥当で合理的な運用をするためには、現実の社会生活についての科学的な知識を必要とする。しかし、このことが承認されたのは20世紀のはじめ以降のことであった。
 ヨーロッパ大陸では、大学において職業的法律家の養成がなされ、イギリスでは法曹ギルドとしてのインズ・オブ・コートが伝統的に職業的法律教育を独占してきた。このことが、法学において科学的手法を用いることを阻害してきたのであろう。筆者は春秋の筆法をもって、法学者側の認識不足が社会学その他の発達を遅らせたという痛烈な批判をする(ドイツではローマ法の継受があったため、それの文献学的・訓詁学的な教育が、フランスでは近代法典の完備が、イギリスではギルドであったことが原因)。
 19世紀のドイツ法学においては、法律の条文や一般的な法原理からの演繹的論理操作によって法律問題を解決することが学者の仕事とされていた(法解釈学の任務は「概念の計算」にあると言ったサヴィニーの句からもわかるだろう)。フランスでは、ドイツのように学説による完璧な体系の構築ということよりは、法典に書かれている条文の忠実な注釈に重点が置かれていたが、やはり概念の分析や法命題からの形式的演繹の偏重する傾向は共通する(フランスやドイツから法を継受した日本もこの傾向を「継受」する)。
 しかし、イエリングはこの主流派を「概念法学」と呼び批判する。法というものはそもそも社会全体の利益と個人の利益を増進し、また諸利益相互間の妥当な均衡を図るための社会技術であり、ゆえに、法学は法の合目的的で有効な運用のための実践的・技術的な学問であることを力説なのであった(日本の民法学者末広厳太郎は弟子の川島武宜に同様な批判を行う)。
 概念法学は現実を見ていない。現実を見よと自由法論者は言う。法律の欠缺を補う材料は、概念ではなく、社会生活事実の経験的な探求によって得られねばならないはず、このことから法社会学が興るのであった。このとき、概念と経験は対置されることになる。

 

 

法と社会―新しい法学入門 (中公新書 (125))

法と社会―新しい法学入門 (中公新書 (125))