虚無日記

残念な人の残念な人による素敵な人のための日記

【要約】入江昭(2014)『歴史家が見る現代世界』、講談社

はじめに
 本著が出版された2014年。それは、第一次世界大戦の勃発からちょうど百年であった。そのことに伴い、世界各地で記念行事および歴史家の会合が催された。著者は2013年11月にドイツのミュンヘンで開かれた現代史研究所の学会に出席する。このことは第一次世界大戦が「現代史」の一部と捉われていることの証左と評価できよう。
 ここにおいて入江は問題提起をする。現代はいつからなのであろうか。現代とはどういう意味なのだろうか。今は現代なのだろうか。それとも「ポスト現代」という時代区分に位置しているのか、というような疑問である(これは私見であるが「現代」は無限後退せざるを得ない概念でありそのことを問うことはナンセンスではなかろうか)。

 

第1章 歴史をどうとらえるか
 いつから「現代」なのだろうか。問題は時代区分の基準である。
 たとえば戦争や革命のような大事件を基準とすると、クリストファー・ベイリーは『近代の誕生』においてフランス革命前夜から第一次世界大戦勃発が近代であるとする。ということは、1914年以降は「近代以降」ないし「現代」となる。それでは冷戦終結以降の世界はどうなのだろう。
 冷戦史観というのがある。それは、冷戦終結からを現代とする考えである。冷戦後は単に平和の時代といえようか。入江はそうではないと述べる。植民地支配が終焉したこと、第三世界が勃興したことは冷戦とは関係がないからである。冷戦後は米国が「世界唯一の超大国」、「米中二国の覇権争い」といった言説あるが、入江はそれに対して批判的だ。米中二か国間は経済的に相互依存関係で、中国移民が米国にはかなりの数でいるからである。 また、入江は、冷戦後はテロとの緊張関係という言説にも批判的である。多くの事件や動きを軽視することになるからである。
 まず、そもそも「現代」を考えるためには、現代的な現象がどのようにして現在まで流れてきたのかを考察する必要があろう。
 歴史研究は、従来国家中心の歴史が研究対象であったが、最近では国家の関係性(入江はこれをトランスナショナルと呼ぶ)が研究対象となってきている。
世界全体の動きを捉えようではないか。国や文化などの境界を越えた人間同士のつながり(これを入江はトランス・ナショナルと呼ぶ)、たとえば、ネットワーク・出会い・関わり合い・共有される思想や態度・摩擦などが考察対象となろう。また生態系などの環境史も対象にもなるだろう。
 第一次世界大戦において、従来は国vs国という構造であったが、グローバル史的に考えれば植民地支配者/被支配者、西洋/非西洋、白人/有色人種、男/女という構造にも捉えることができる。ある意味これはジャック・デリダが唱えた脱構築を入江は研究に用いているといえよう。
 いわゆる歴史認識というものがある。しかし、本当にあるのは「世界の歴史」であり、歴史家の責任とは歴史を神話にすりかえないことなのである。
グローバル史観は1990年代以降から興った。時系列的にいえば、ナショナル・ヒストリーからインターナショナル・ヒストリー(外交史等)へ、そしてグローバル・ヒストリーとなる。
 近代化という枠組みで非西洋地域の歴史を考えることは、近代欧米の歴史をモデルとしており、モデルにするということは知的帝国主義の表れで、反省すべき態度であろう。西洋を「ディセンター」(中心から外す)し、既存のモデルを用いるのではなく新規のモデルを開発するのが大切である。しかし、グローバルやトランスナショナルといっても国家の存在を否定するものではない。トランスナショナルという語はnationを前提にしていることからも分かる。
 グローバル史観の根本は、いろいろな形で世界各地がつながっているというものである。帝国主義消滅によりグローバル化が一層進展した。グローバル化には二段階ある。①ブレトンウッズ体制などに代表される米国主導の時期、②米国以外の諸国の復興ないし新興である。

 

第2章 揺らぐ国家
 本章のテーマは内交と外交の関係性、多様なつながりにおける国家の存在意義である。国家とは地理(境界線)と歴史(過去)によって定義される人間集団(国籍)と定義できる。ナチ、ファシストソ連共産党の瓦解が意味することは国内のネットワーク作りを独占しようとした国家権力は長続きしないということである。「大きな政府」から「小さな政府」への転向も同じである。福祉国家の構想は必然的に国家(政府)と社会(市民)とのあいだの距離を縮めることにある。国内のつながりと国際的なつながりは各国においても見出される。たとえば、ソ連ゴルバチョフによるペレストロイカや、ニクソンの訪中、毛沢東死去後の鄧小平白猫黒猫論だ。

 

第3章 非国家的存在の台頭
 ノンステート・アクターズ(非国家的存在)というのが台頭してきた。社会に存在する民間のネットワークが、国家とは関係なくできあがったのだ。国境を気にしない組織が増せば増すほど、国家そのものの重要性や影響力が相対的に低下していく(国家の役割がノンステート・アクターズへ分担・移行)ことは明白だ。
 たとえば1970年代に南アフリカアパルトヘイトが廃止されるまで、いかなる企業も南アフリカに投資するなという運動が発生し、ついに1991年人種隔離政策が廃止されたことは例証として十分に価値がある。
 これはネーションとは別のアイデンティティとなる。同じネーションに属するということは偶然同じところにいるというだけなく、必然的に文化的側面も共有するということを意味するが、人々のつながりの中核はネーションなのだろうか。それは違う。人種、民族、宗教、性別、職場、「共産党宣言」、「知的自由宣言」、健常者/障害者などというように様々な括り方ができる項があるのだ。

 

第4章 伝統的な「国際関係」はもはや存在しない
 著者の仮説によれば、国際関係には、軍事力や経済力などの「パワー」の側面(ハード)と、思想、心理、理想、感情といった文化の側面(ソフト)がある。国家間には権利政治的な関係と、国境を越えた文化的な関係がある(前者は潜在的な対立や抗争を前提、後者は世界で国々や人々を結びつける作用)のだ。
 だが、しかし待ってほしい。これは主体が異なっているのではないだろうか。何をもって国際関係しているのか定義はあいまいだ。国家における国際関係と人々及び社会における国際関係とがあり、この二義性または多義性を著者は混同しているのではないかと私は思う。十分に吟味するべき内容であろう。
 閑話休題。「国益」や「パワーゲーム」という枠組みで国際関係をとらえる習慣からなかなか抜け出せない理由は何かを考えてみよう。それはナショナリズムが依然として影響力を持つからだ。今必要なナショナリズムとは世界を分断するものではなく、結びつけるナショナリズムなのである。代表例はヨーロッパ共同体である。ECやEUの特徴は加盟国間の関税を撤廃して域内の交易を簡易化、移民、環境、人権などについても共通の政策を作成する(また、私見であるが、ASEANも結びつけるナショナリズムであろう。入国審査におけるASEANレーンは特筆すべきだ)。
 インターナショナリズム(国際主義、国と国との間をつなぐ)の流れを考えてみよう。それは近代国家が出現し始めた17世紀頃からヨーロッパで現れる。当時のヨーロッパでは、複数国家がそれぞれに自国の国益を追求するような状態であったが、国家間の平和を保ち相互依存的な関係を築くべきという考えも生まれたのである。
 この考えは理想主義的やしないか。そうではない。インターナショナリズムは「我が国」ではなく「我々の世界」が視野にある。インターナショナリズムは理想主義的すぎるという批判もある(過去の戦争も平和も、根本的な力の関係であり勢力均衡が当たり前というようなもの)。「ホッブズ的恐怖の状況」である。しかし、現実主義は冷戦終結を説明できない。冷静集結は、単に米ソのパワーバランスとして理解できるものではなく、緊張緩和の願望や、核への反対運動など広い意味での国際主義と関連づけなければ不十分なのだ。

 

第5章 普遍的な「人間」の発見
 グローバリズムという概念、グローバリズム、つまりグローブ(地球)全体の繁栄を目標とする概念は、国益の追求を目指すナショナリズムの対極にある(地球という惑星を一つの単位として見る)。
 トランスナショナリズムという概念において、新しい人間観を支えているのは国ではなくノンステート・アクターズというトランスナショナルな現象である。「トランス」という前置詞(これは入江の誤りで正確にいえば接頭語だが些細な事だろう)には、トランセンド(超越する)、トランスフォーム(変形する)、トランスミット(渡す)、トランスファー(乗り換え)などという単語があるように、「超える」、「変える」、「つなぐ」という意味合いがある。「トランスナショナリズム」も、国境を越えると同時に、国家の間を繋げ新しい性格のものにするという趣旨で使用されるのだ。トランスナショナリズムとはトランスナショナルなつながりを促進するという概念なのである。

 

第6章 環地球的結合という不可逆の流れ
 第二次世界大戦後過渡期には人類の大移動があった。戦争終結に伴う兵士や占領地で暮らす人々の引き上げである。労働力補給のための外国人労働者受け入れ(たとえば英仏蘭の植民地からの受け入れ、独が土にゲスト・ワーカーを求めたこと、米の移民法改正に伴う割り当て制度の廃止、産油国への移り住み)などだ。
ところで、オイルショックという大事件があったが、これは何を示したのだろうか。現代世界の一つの特徴として、代替エネルギーの探求が挙げられる。1970年代のオイルショックは、世界各地のつながり、相互依存性を改めて示すものであったのである。

 

結びに代えて……
 入江の別の著書の引用で締めくくろう。

 

「グローバリゼーションの進行する世界にあって、いかにして国家間、文明間の平和な関係を維持していくかが、人類の将来にとっての重要な課題となる。このふたつの流れが並行して進行すれば、世界六十億の人々にとって、より平和で住みやすい時代となる可能性があるが、もしもグローバル化が国家間、文明間の対立や衝突を招くことになれば、人類にとってこれ以上の悲劇はない。/そのような悲劇を防ぐためにも、各国の政府、市民、民間組織がお互いに協力しながら、グローバル化のもたらす負の面、とくに環境汚染、伝染病、テロリズムなどに対処し、一方国境を越えた人的交流を盛んにすると同時に、文明間の対話を促進していくことが望まれる。その意味では、歴史家としても、過去を共有するのみならず、将来をも共有するように努力すべきだ、ということになろう」(入江 2005,p.206)

 

引用文献
入江昭(2005)『歴史を学ぶということ』、講談社

 

歴史家が見る現代世界 (講談社現代新書)

歴史家が見る現代世界 (講談社現代新書)

 

 

 

歴史を学ぶということ

歴史を学ぶということ